| 付記:ベートーヴェン・第九に関する雑学・豆知識・エピソード・うんちく(蘊蓄)・トリビア(Trivia) |
| 欧州連合賛歌 (ラテン語) 作詞者のオーストリアの Peter Diem氏の ホームページ |
Ode a la joie (フランス語) 仏語版のWikipediaより |
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| Himno a la Alegria (スペイン語) Beethoven's Worldより |
An die Freude (イタリア語) 伊語版のWikipediaより |
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| ベートヴェン(貝多芬)の歓喜の歌(歡樂頌)の中国語(中文)の歌詞 (中文版のWikipediaより) | |||||
| 向島芸者連が「国技館すみだ第九を歌う会」で使用した、音訳(無理矢理、ドイツ語の歌詞を漢字にあてはめた、ごろあわせ) ドイツ語の発音をカタカナで表記し、それに漢字をあてはめてあります |
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| なかにし礼(S.62)・堀内敬三(S.31)の日本語歌詞 (国立音楽大学音楽研究所ベートーヴェン研究部門 より) | |||||
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年 月 日
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出 来 事
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1770年12月17日
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ドイツのボンで生まれる(この日が洗礼日で誕生日は12月16日ともいわれている) |
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1776年
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父のヨハンから音楽教育を受けるようになる |
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1777年
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ドイツ・ボンの下級学校に入学 |
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1778年3月26日
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ドイツ・ケルンでピアノ公開演奏会に初めて出演する |
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1781年
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オランダへ演奏旅行に出かける |
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1782年
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最初の作品「ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲 WoO63」を出版 |
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1783年
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本格的な作曲活動を開始する 「選定候ソナタ WoO47-1、2、3」を出版 |
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1784年2月
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無給宮廷楽士(オルガン奏者助手)となる |
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1785年
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シラーがドレスデンで「歓喜に寄す An die Freude」を作詩 |
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1785年
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宮廷オルガン奏者となる |
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1786年
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シラー編集の雑誌「タリーア」(ライプチッヒ)に「歓喜に寄す An die Freude」を掲載する |
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1787年
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初めてのウィーン旅行を行い、モーツァルトの前で即興演奏を行う |
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1789年5月
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ボン大学に聴講生として登録する(専攻:ギリシャ・ローマ古典) |
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1790年
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ドイツ・ボンに立ち寄ったハイドンに会う |
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1792年
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この頃、シラーの詞「歓喜に寄す An die Freude」にいたく感動し、曲をつけようと思い立った |
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1792年11月2日
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ハイドンに師事するために、ウィーンへ行く |
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1793年
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サリエリに教えを受ける |
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1794年
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第1回プラハ旅行 |
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1795年
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ウィーン・ブルグ劇場の慈善音楽会で、自分の作品(ピアノ協奏曲第2番)を演奏する |
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1795年
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第2回プラハ旅行 |
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1796年
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第3回プラハ旅行 ベルリン・ドレスデン・ライプチッヒへも旅行する |
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1797年
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ピアノ ・ソナタ 作品13「悲愴」を作曲する |
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1799年
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伯爵の令嬢姉妹テレーゼとヨゼフィーネにピアノを教える |
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1800年
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交響曲第1番ハ長調 作品21完成ゴットフリート・ファン・スヴィーテンに献呈 (初演は1800年4月2日、ウィーンのブルク劇場) |
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1801年6月29日
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難聴を手紙に書く |
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1802年
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交響曲第2番ニ長調 作品36完成 (初演は1803年4月5日、オーストリア・ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場) |
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1802年10月6日
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ハイリゲンシュタットの遺書を書く |
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1804年
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交響曲第3番変ホ長調 作品55「英雄」完成 (初演は、1805年4月7日、オーストリア・ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場) |
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1805年
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オペラ・レオノーレを初演、大失敗となる |
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1806年3月29日
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改訂した、オペラ・レオノーレも失敗となる |
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1806年12月23日
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ヴァイオリン協奏曲 作品61を初演 |
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1807年
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交響曲第4番変ロ長調作品60完成 |
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1808年
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交響曲第5番ハ短調 作品67「運命」完成 ロブコヴィッツとラズモフスキー卿に献呈 (初演は、1808年12月22日、オーストリア・ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場) |
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1808年
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交響曲第6番ヘ長調 作品68「田園」完成 ロブコヴィッツとラズモフスキー卿に献呈 (初演は、1808年12月22日、オーストリア・ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場) |
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1808年
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合唱幻想曲ハ短調 作品80完成(第九の旋律の原型があらわれている) (初演は、1808年12月22日、オーストリア・ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場) |
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1810年4月27日
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「エリーゼのために」WoO.59を、テレーゼ ・マルファッティのために作曲し、彼女に贈る |
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1812年7月6日
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テープリッツで「不滅の恋人への手紙」を書く |
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1812年11月28日
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ピアノ協奏曲第5番変ホ長調 作品73「皇帝」作曲・初演 |
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1812年
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交響曲第7番イ長調作品92完成 (初演は、1813年12月8日、オーストリア・ウィーン) |
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1813年
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交響曲第8番ヘ長調作品.93完成 (初演は、1814年2月27日) |
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1815年5月23日
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レオノーレを改訂した、オペラ・フィデリオ初演、成功をおさめる |
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1815年
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交響曲第9番の作曲開始 |
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1817年
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ロンドンのフィルハーモニー協会より交響曲の作曲の委嘱を受け、これをきっかけに本格的に交響曲第9番の作曲を開始 |
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1818年
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ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調 作品106「ハンマークラヴィーア」作曲 (フーガを使用し、前楽章主題を暗示する技法を用いる) |
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1820年
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難聴が増し、この頃より筆談を始める |
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1824年
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交響曲第9番ニ短調「合唱」作品125完成 (プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に献呈) |
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1824年5月7日
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第九をウィーンのケルントナートーア劇場にて初演。指揮はウムラウフとベートーヴェン(大成功に終わる) |
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1824年5月23日
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ウィーンのレドゥテンザールの大ホールで「第九」の再演 (客席は半分も埋まらなかった 以降、存命中はウィーンで演奏されることはなかった) |
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1925年 3月21日
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ロンドン初演 |
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1825年 4月 1日
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フランクフルト初演(第3楽章省略) |
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1825年 5月23日
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ドイツ・アーヘン初演(第2楽章省略) |
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1826年 3月 2日
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ライプツィヒ初演 |
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1826年 8月28日
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ショット社から第九のスコア、パート譜、ピアノ・ヴォーカル・スコアが出版される |
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1826年11月26日
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第九献呈に対するプロイセン王名義の礼状 |
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1826年11月27日
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ベルリン初演 |
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1826年12月20日
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ブレーメン初演 |
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1827年 1月27日
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ベートーヴェンからショット社への書簡(初版の間違い訂正、印刷譜への不満) |
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1827年 3月 9日
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プラハ初演 |
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1827年3月26日
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オーストリアのウィーンで死去 |
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1827年
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ショット社の第九の初版スコアが増刷される(メトロノーム記号が付与される) |
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1829年
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チェルニー編曲による4手ピアノ版がプロースト社より出版 |
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1831年 3月27日
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アブネックが3年にわたってスコア研究後、パリで演奏を行う(演奏はパリ音楽院管弦楽団)以降、アブネックは度々第九の演奏をおこない、それを聴いたワグナーや、ベルリオーズは感銘を受ける |
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1831年 4月 3日
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ワグナー編曲による2手ピアノ版出版 CDが発売されています(ワーグナー編曲 : 交響曲第9番 「合唱」) |
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1835年 2月
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ミュンヘン初演 |
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1836年 3月 7日
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ペテルスブルグ初演 |
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1837年 4月17日
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ロンドンで再演(フィルハーモニック協会において) |
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1841年 5月23日
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ケルン初演(第23回ライン音楽祭において) |
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1845年 8月10日
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ボン初演(エルンスト・ヘーネルのベートーヴェン記念碑除幕式において) |
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1845年 8月11日
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ハンブルク初演(ベートーヴェン祭において) |
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1846年 5月20日
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ニューヨーク初演(アメリカ初演。キャッスル・ガーデン)英訳された歌詞で演奏される |
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1846年
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リヒャルト・ワグナーがドレスデンで第九の指揮をする |
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1852年
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ベルリオーズがロンドンで第九の指揮をする |
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1863年
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墓地の改修が行われ、その際ベートーヴェンの遺骨を発掘し調査が行われた(身長は165cm前後だという事が報告されている) |
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1864年
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ワッツ編曲による4手ピアノ版出版 |
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1865年
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リスト編曲による2手ピアノ版出版 CDが発売されています(リスト編曲 : 交響曲第9番 「合唱」) 楽譜が販売されています(Beethoven Symphonies Nos. 6-9: Transcribed for Solo Piano) |
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1872年
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バイロイトに祝祭劇場を建設する際、その記念として選帝侯劇場にてリヒャルト・ワーグナーの指揮で第九が演奏された (その縁もあり、第九はバイロイト音楽祭でワーグナーの歌劇・楽劇以外で演奏される唯一の曲となっている) |
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1878年
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イタリア初演 |
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1880年
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フィレンツェ初演 |
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1882年 4月 2日
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マドリード初演 |
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1888年
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ベートーヴェンの墓は、「楽聖特別区」と呼ばれる中央墓地32区に改葬される(以前の墓は、シューベルト公演にあり、現在も墓碑が残っている) |
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1905年
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マーラーがプラハで第九の指揮をする |
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1903年
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ノーベル文学賞受賞作家の、ロマン・ロラン(1866-1944)が伝記「ベートーヴェンの生涯 |
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1905年
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ナポリ初演 |
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1918年6月1日
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徳島県鳴門市の板東俘虜収容所で、ドイツ兵捕虜による全曲演奏がなされる(日本初演) |
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1924年1月26日
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福岡で九州帝国大学のオーケストラが第4楽章のみ演奏 |
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1924年11月29日
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東京音楽学校管弦楽団・合唱団全曲演奏(日本人による全楽章初演:除・指揮者) (指揮はグスタフ・クローン、ソプラノ長坂好子、アルト曽我部静子、テノール船橋栄吉、バリトン沢崎定之) |
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1927年5月3日
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新交響楽団(現NHK交響楽団)が「ベートーヴェン百年祭記念大演奏会」第4夜に全楽章演奏(指揮はケーニッヒ) |
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1928年12月18日
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近衛秀麿の指揮で、すべてが日本人による演奏がなされる |
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1933年
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ナチス時代最初のバイロイト音楽祭で、第九が初めて開幕を飾る(R. シュトラウス指揮) |
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1936年11月17日
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エマヌエル・メッテルの指揮で、京都宝塚劇場で演奏(関西地区の初演) (オーケストラは京都帝国大学交響管弦楽団(現・京都大学音楽部交響楽団)、合唱は大阪音楽学校合唱団) |
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1947年12月9日
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レオニード・クロイツァー指揮で日本交響楽団が演奏 これ以降、日本交響楽団が年末に演奏するようになる |
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1951年 7月29日
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戦後の第1回バイロイト音楽祭開幕に、フルトヴェングラー指揮で演奏される CDが発売されています これとこれ |
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1960年代
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この頃より、日本でアマチュアの合唱団が第九を歌うようになる |
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1963年11月7日
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ベルリン・ドイツ・オペラ(カール・ベーム指揮)が日生劇場にて演奏(全員外来演奏家による日本初演) |
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1964年10月10日
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東京オリンピックに東西ドイツが統一選手団を送ったが、国歌の代わりに歌われた |
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1972年 1月
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カラヤン編曲の「歓喜の歌」がヨーロッパ会議(CE)の国歌に相当する歌として承認される |
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1978年11月26日
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豊橋市で、市民の合唱団による、第1回の第九演奏会が行われる 以後、度々開かれる[ここを、参照して下さい] (指揮:小泉ひろし オーケストラ:名古屋フィルハーモニー交響楽団) |
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1983年12月4日
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サントリー・一万人の第九 第1回演奏会が山本直純指揮で開催 (以降、毎年年末に開かれている)[ここを、参照して下さい] |
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1985年2月17日
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国技館5000人の第九コンサート 第1回演奏会が石丸寛の指揮で開催(以降、毎年2月に開かれている)[ここを、参照して下さい] |
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1985年 6月28日
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ミラノで開催された欧州理事会で欧州連合(EU)の欧州連合賛歌として採用される(歌詞はラテン語) |
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1985年12月12日
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第九ひろしま 第1回演奏会が渡邉暁雄の指揮で開催(以降、毎年年末に開かれている)[ここを、参照して下さい] |
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1987年
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なかにし礼が日本語の「歓喜の歌・日本語版」を出版し、同年8月に桑名市民会館で初演される[第九のページをご覧ください] |
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1989年 2月 7日
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長野オリンピックの開会式で、小澤征爾の指揮により世界5大陸(北京・ベルリン・ケープタウン・ニューヨーク・シドニー)の合唱団が加わった衛星同時中継による第4楽章の演奏が行われた |
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1989年12月25日
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レナード・バーンスタインがベルリンの壁崩壊を記念して第九をベルリン(シャウシュピール・ハウス)で演奏する 歓喜の歌の歌詞は、「Freude(歓び)」を「Freiheit(自由)」に置き替えられて行われた (編成は、バイエルン放送交響楽団を母体とした、独米英仏ソ連の混成オーケストラ) そのCDは、ここ |
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1996年
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イギリスの音楽学者・指揮者のジョナサン・デルマーが、第九の新旧様々な資料に照らし合わせて問題点を研究・究明し、楽譜化され、ベーレンライター社から出版される(いわゆる、ベーレンライター版です) これです 2006年版(Sinfonie Nr. 9 d-Moll op. 125) |
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2001年 9月 4日
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ベルリン国立図書館収蔵の自筆スコアが、ユネスコ(UNESCO)の世界遺産に指定される (インターネット上に公開され、全ページの閲覧が出来ます) |
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2001年 7月10日
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「歓喜の歌」が欧州連合(EU)の国歌に相当する歌として憲法草案に盛り込まれる |
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2003年
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初演にも使われた、初版用筆写スコアを出版元のショット社がロンドン・サザビーズのオークションに出し、190万ポンド(約3億6500万円)で匿名の人に競り落とされ、音楽資料の落札価格最高値を更新する (ジュリアード音楽院の手稿譜コレクションとしてインターネット上で閲覧出来ます) |
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2007年
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アメリカのLifegem社は、ベートーヴェンの遺髪からダイヤモンドを3個作成し、そのうちの一つをネットオークションに出品したが、その落札スタート価格は、100万ドルであった(日本法人のライフジェム社はここです) |
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2007年12月15日
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カラヤン生誕100年を記念し、ユニバーサルが「カラヤンの第九」の中から名盤として長く親しまれてきた1962年に録音されたものを「ガラスCD」としてリリースしたが、市販CDとしては定価20万円と最高価格となる (Amazonのここで |
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第九
交響曲第9番ニ短調作品125『合唱付』 の本来の名称(原題) Sinfonie mit Schluß-Chor über Schillers Ode “ An die Freude ” für großes Orchester, 4 Solo- und 4 Chor-stimmen componirt und seiner Majest ät dem König von Preussen Friedrich Wilhelm III in tiefster Ehrfrucht Zugeeignet von Ludwig van Beethoven, 125 tes Werk シラーの頌歌(しょうか)「歓喜に寄す」による終結合唱を持つ、大管弦楽、四声の独唱と四声の合唱のために作曲され、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世陛下に最も深い尊敬の念を持って、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンにより、献呈された交響曲、作品125 1926年にマインツで出版された「ショット社」の第九の初版の楽譜より |
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![]() ベルリン国立図書館収蔵の自筆スコアの表紙 (上の画像をクリックすると全ページ閲覧できます) 2001年にユネスコ(UNESCO)の世界遺産に指定されています |
![]() ベルリン国立図書館収蔵の自筆スコアの譜面 第4楽章の237小節の、合唱の始まり部分 『 Deine Zauber binden wieder, 』 |
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1
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第九交響曲
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ロンドンのフィルハーモニー協会より交響曲の作曲の委嘱を受け、これをきっかけに本格的に交響曲第9番の作曲を開始したので、初演はロンドンで行なう予定、との噂を聞きつけたウィーンの貴族や音楽家達は、ウィーンでの初演を求める請願書を1824年2月の新聞に掲載したので、ウィーンで初演された |
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2
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第九交響曲
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第九は当初はロシア皇帝アレクサンドル1世に献呈される予定だったが、崩御によりプロイセン王のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に献呈された |
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3
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第九交響曲
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第九をプロイセン王へ献呈した際ベートーヴェンに指輪が贈られたが、鑑定させて300グルデンと判るとベートーヴェンは安過ぎると怒り、売り払ってしまった |
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4
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人物
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2000年10月、ベートーベンの遺髪をサンホセ州立大学が分析した結果、通常の約100倍の鉛が検出された |
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5
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第五交響曲
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『運命』という呼び名は、ベートーヴェンが「冒頭の4つの音は何を示すのですか」と問われたのに対して「運命はこのように扉をたたくのだ」と答えたことに由来しているが、これは、ベートーベンの没後、弟子のアントン・シントラーが伝記に書いたものが元となっている。『運命』はベートーベンが付けた曲名ではなく、ベートーベンの没後に付けられた単なる愛称で、自身はそう呼ばれている事を知らない。また、日本ではポピュラーなこの愛称も、海外ではほとんど使われていない |
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6
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ピアノ曲
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テレーゼ・マルファッティ(結婚後:テレーゼ・フォン・ドロスティック)は、かつてベートーベンが愛した女性であり、ベートーヴェンの「お約束のものを沿えて送ります」という手紙とともに、ピアノ小品 イ短調WoO.59 「エリーゼのために(Für Elise, am 27, April 1810, für Erinnerung von L.v.Bthvn)」の楽譜は彼女の手紙箱から発見された |
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7
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ピアノ曲
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ベートーベンの没後、研究者達に発見された際、ベートーベンの字があまりにも汚かった為、「テレーゼ(Thelese)」を「エリーゼ(Elise)」と読み間違えられ、「エリーゼのために」として発表された(100年以上もの間、エリーゼという人のために書かれたと思われていた) |
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8
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人物
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「エリーゼのために(Für Elise)」を贈った一月後に、テレーゼに求婚を申し込んだが断られている(ベートーヴェン 39歳、テレーゼ 18歳) |
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9
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第五交響曲
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第二次世界大戦中、英国BBCでは交響曲「運命」を放送開始時に放送していた。これは、冒頭の「ジャ・ジャ・ジャ・ジャーン」が、モールス信号のV[トン・トン・トン・ツー( ..._ )]にあたり、Victoryを意味していた。 |
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10
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性格
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無類のコーヒー好きで、毎朝自分で正確に豆60粒を数えて、トルコ式ミルでひいた。後にこのミルを、ベートーベン・ミルと呼び、現在でもウィーンのコーヒー・ショップの看板やウィンドウでよく見かける。(ちなみに、ウィーンでは「ウィンナ・コーヒー」は存在せず、「アインシュペナー」または「カフェ・メランジェ」がほぼ同じものです) |
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11
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メトロノーム
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メトロノームはドイツで1812年にヴィンケルが「振子式音楽用速度計」というメトロノームの原型を作っている。それに目盛りなど改良を加え、ドイツの技師、ヨハン・ネーポムク・メルツェル(1772−1838)によって1815年に製品化されたが、メルツェルがパリで特許を取ったため、メルツェルが発明したものとして広まっている |
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12
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メトロノーム
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メトロノームを最初に使った作曲家は、ベートヴェンである。1815年に製品化されたが、彼はこの機械をとても気に入り、それまでの彼の全ての作品を、このメトロノームで速さを測り、それまで付けていた速度記号を全て書き直した また、彼が使用したことにより急速に音楽家たちに普及した |
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13
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メトロノーム
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楽譜の冒頭についている「 M.M.= 」は、速度記号であるが、Mälzel's Metronome(メルツェルのメトロノーム)の意味である |
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14
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メトロノーム
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メトロノームはメルツェル社の登録商標であるが、現在では一般名称として使用されている |
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15
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メトロノーム
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ベートーヴェンの墓地の墓碑は、メトロノームの形をしている[ここをご覧ください(音楽史跡とオペラの旅 HPより)] |
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16
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メトロノーム
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メトロノームを製品化した、メルツェルの弟 レオナルト・メルツェル(1783-1855)は、難聴のベートーヴェンのために数多くの補聴器を試作している [補聴器愛用会のホームページの、「補聴器の歴史」にベートーヴェンが愛用した補聴器の写真があります] |
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17
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第八交響曲
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シントラーは、「1812年の春にメルツェルとベートーヴェンが一緒に昼食ととっていた時に、その場で口ずさまれたメロディを即興でカノンに仕立てた。[『タ、タ、タ…親愛なるメルツェル よ、ごきげんよう』(Ta ta ta...lieber Malzel, leben Sie wohl)」WoO.162(1812)]」というエピソードを伝記に残し、「それが第8交響曲のアレグレット(第2楽章)の原形であり、出だしはメルツェルのメトロノームの動きの音だ」と言っているが、このWoO.162の作品と、このエピソードはシントラーの偽作の可能性が高い |
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18
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人物
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王や貴族のための宮廷作曲家から脱皮し、自立して生計を立てた最初の作曲家である |
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19
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性格
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大変な引っ越しまで、ウィーンとその近郊を79回にわたって引っ越している。そのため、現在ではウィーンの至る所に「ベートーヴェンの住んだ家」という、ウィーン市の案内プレートを見つける事が出来る。 |
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20
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人物
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最後の言葉は、「友よ、喝采せよ、喜劇は終わった(Plaudite,amici,comedia finita est) 」である |
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21
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人物
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ベートーヴェンは不器用で、触ったものは何でもひっくり返る、ひげをそると血だらけになる、などの逸話がある。 |
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22
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人物
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容姿は、小太りで身長も低く、黒い顔は天然痘の痕で酷く荒れており、髪は縮れ、マユがげじげじ、およそハンサムではなく、コンプレックスを持っていた |
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23
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人物
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若い頃は、「スペイン人(エスパニョール)」というあだ名がついていた |
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24
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人物
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若い頃は結構着るものに気を遣っていたが、歳を取ってからは着るものに無頓着となり、「汚れ熊」というあだ名がついていた |
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25
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人物
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ハイドンからは 「蒙古大王 」というあだ名をつけられていた |
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26
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人物
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ベートーヴェンはワインが好物でよく飲んだが、当時のワインは醗酵しすぎてすっぱかったので、この酸味を抑えるために、鉛を酢酸で溶かしたものである、酢酸鉛(別名:鉛糖)で甘味をつけていた。彼は、腹痛を紛らわす目的も含めてワインを常飲していたが、鉛中毒がそもそも慢性的な腹痛・下痢の原因になり、悪循環を起こしていた可能性が高い。また鉛中毒はまれに難聴を引き起こすことから、耳疾の原因としても有力になっている。癇癪持ちで気まぐれという性格も鉛中毒によるものかもしれないといわれている |
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27
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人物
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16歳のときウィーンに行き、モーツァルトの提示した主題をもちいて、即興のピアノ演奏を行ったが、「この才能に注意を払いたまえ。この若者は今に全世界の話題をさらってしまうだろう(der wird einmal in der Welt von sich reden machen!)」とモーツァルトは友人に言っており、ベートーヴェンの才能を認めている |
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28
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人物
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Beethovenは、「beet(ビート・砂糖大根)+ hoven(農場)」で、「van Beethoven」は『砂糖大根農場の』という意味である(私・奮健倶楽部報道官は、砂糖はサトウキビだけで作られるものだと思っていました) |
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29
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人物
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ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの「ヴァン(van)」というのは、オランダ系のありふれたミドルネームであり、貴族をあらわす「フォン(von)」とはない |
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30
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人物
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彼の「ヴァン」が「フォン」と一時期間違えられていたことがあり、ベートーヴェン自身も訂正せずに大きな顔をしていた そのため、甥のカールの養育権をめぐる裁判において貴族法廷と庶民法廷のいずれで審議すべきかということが問題となった事もある |
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31
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性格
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自分の曲を演奏するときに、即興部分を取り入れたりして披露したが、他人が演奏するときには譜面通り弾くようにと、厳しくしかった |
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32
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人物
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ベートーヴェンの葬儀には、3万人もの人が集まった |
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33
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人物
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当初、ベートーヴェンとシューベルトはヴェーリング墓地(現在:シューベルト公園)に埋葬された[ここをご覧ください(音楽史跡とオペラの旅 HPより)] |
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34
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人物
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1863年に墓地の改修が行われ、その際ベートーヴェンとシューベルトの遺骨を発掘し調査が行われたが、ベートーヴェンの身長は165cm、シューベルトの身長は153cm前後だという事がわかった |
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35
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人物
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1888年に、ベートーヴェンとシューベルトの墓は、「楽聖特別区」と呼ばれる中央墓地32区に改葬され、現在その場所にはブラームス、ヨハン・シュトラウス一世・二世、スッペ、シェーンベルクらの墓や、モーツアルト記念碑がある(シューベルト公園には、ベートーヴェンとシューベルトの墓碑だけが残っている)[ここをご覧ください(音楽史跡とオペラの旅 HPより)] |
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36
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シューベルト
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シューベルトは作品10の「四手のためのピアノの変奏曲」を、ベートーヴェンへの献呈の辞を添えて1822年に出版し、その作品を持ってベートーヴェンを訪ねたが留守で会えなかった。(シントラーの書いた、ベートーヴェンの伝記ではシューベルトは面会し、感激のあまり終始無言であったと述べられている) |
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37
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シューベルト
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ベートーヴェンが病床についている時に、見舞いに訪れたシューベルトは初めて面会できた |
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38
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シューベルト
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ベートーヴェンの葬儀の際、棺を36人の松明を持つ人々で取り囲んだが、その中にシューベルトや、チェルニーがいた |
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39
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シューベルト
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シューベルトは、尊敬するベートーヴェンの葬儀に列席した後、仲間たちと居酒屋で乾杯し「最初の1杯は、いま亡くなった人のため、2杯目は、その人を追って亡くなる人のために」と言った。その「2杯目」は、彼自身へのものだったと言われている。翌年の1828年、病に倒れ亡くなったが、彼の亡骸は、ベートーヴェンの墓の隣に埋葬された |
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40
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人物
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ベートーヴェンは、「自分が、もしレクイエムを作るとしたら、ケルビーニを模範とするだろう」と言っているが、ベートーベンの葬儀が1827年3月29日に行われた後、鎮魂のミサが2回にわたって行われ、4月3日にはモーツァルトのレクイエムが、4月5日にはケルビーニがルイ16世のために作曲した、ハ短調レクイエムが演奏された |
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41
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第九交響曲
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ソニーとフィリップスが、CDの収録時間を討論したときに、「カラヤン指揮の第九が一枚のCDに入らなければ意味がない、巨匠カラヤンもそう望んでいる」という、ソニーの主張が通りCDの収録時間は74分となった(実際のカラヤンの第九の演奏時間は約66分、演奏時間の比較はここです)[ここを参照して下さい] |
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42
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第三交響曲
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交響曲第3番は、ナポレオンが皇帝に即位したという話を聞いて激怒し、「彼も普通の人間にすぎなかったのか」と失望し、献呈辞が書いてある表紙を破り取ったという有名なエピソードがあるが、実際は、表紙に書かれた 「ボナパルト 」という題名とナポレオンへの献呈辞をペンでかき消した上に、 「シンフォニア・エロイカ(英雄交響曲) 」と改題し、 「ある英雄の思い出のために 」と書き加えられている。(この浄書総譜は、ウィーン楽友協会に現存している) |
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43
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第三交響曲
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ナポレオンがセントヘレナ島で亡くなったという報を聞いて、「17年も前に私は彼の哀れな最後にふさわしい音楽を書いている」と言ったが、交響曲第3番の第2楽章の葬送行進曲のことを指すと言われている。 |
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44
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ピアノソナタ
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ピアノソナタ第17番は、「テンペスト(嵐)」と、呼ばれているが、これは、弟子のアントン・シントラーが曲の解釈について聞いたところ、ベートーヴェンが「シェイクスピアの『テンペスト(あらし)』を読め」と言ったと、伝記に書いた事が元になっている |
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45
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ピアノソナタ
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ベートーヴェンは、ピアノソナタを第32番まで作曲しているが、自分自身が、そのピアノソナタに名付けた表題は、「悲愴」、「告別」のみで、他の「葬送」、「月光」、「田園」、「テンペスト(嵐)」、「熱情」、「ヴァルトシュタイン(Waldstein)」,「熱情」、「テレーゼ」、「かっこう」、「ハンマークラヴィーア」は後年の人が命名した |
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46
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ピアノソナタ
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ウィーンからボンへ来ていたヴァルトシュタイン伯爵(ドイツ騎士団に入団のため)は、ベートーヴェンの才能を賞賛し、当時のボンには数台しかなかったアウグスブルグのJ.A.シュタインのピアノを贈っているが、ベートーヴェンは彼に有名なピアノソナタ第21番ハ長調(ワルトシュタイン・Waldstein)を献呈した |
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47
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その他
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1792年に、ベートーヴェンがハイドンに指事を受けるため、ボンからウィーンに行く際に、ヴァルトシュタイン伯爵から「たゆまぬ努力をもって、モーツァルトの精神をハイドンの手から受け取りたまえ」という有名な言葉を贈られた |
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48
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ピアノソナタ
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ピアノソナタ第24番嬰ヘ長調「テレーゼ」は、テレーゼ・フォン・ブルンスヴィックという伯爵令嬢に捧げられたため、このように呼ばれている(「エリーゼのために」のテレーゼとは、別の人です) |
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49
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ピアノ曲
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ベートーヴェンのピアノ小作品に「なくした小銭への怒り(小銭をなくして怒り心頭、カプリースで怒りをぶちまける)」があるが、これは、「ロンド・ア・カプリッチョ(奇想曲風ロンド) ト長調 作品129」のことで、作品番号は第九より後であるが、1795〜98年にかけてウィーンで作曲され、ベートーヴェンの死後発見されて、翌年に出版された この「なくした小銭への怒り」と言う副題は、シントラーによってつけられ、内容は、主題が繰り返し現れるロンド形式で始まり、突如いらだち始めたかのように、主題の一部だけが繰り返される曲である(ここYouTubeで聞けます) |
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50
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ピアノソナタ
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ピアノソナタ「月光」(ピアノソナタ第14番嬰ハ短調)は、詩人レルシュターブが第1楽章について「スイスのルツェルン湖で、月光の中、波にゆらぐ小舟のよう」と言ったことから、こうよばれている |
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51
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ピアノソナタ
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戦前の尋常小学校の国語の教科書には、「月光の曲」と題するベートーヴェンに関する作り話が載っていた あらすじは、月明かりの夜にベートーヴェンが散歩をしていると、盲目の貧乏な少女が自宅で彼のピアノ曲を弾いていたので、立ち寄って即興で演奏を行い、それが月光の曲となったというものである(ここを参照してください) |
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52
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ピアノソナタ
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ピアノソナタ第10番ト長調は、「夫婦喧嘩」と呼ばれているが、シントラーが「男女の対話(主義の争い)が認められる」と述べたことから、たまにこう呼ばれているが、日本でしか通用しない |
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53
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ピアノソナタ
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ピアノソナタ第12番変イ長調作品26は、第三楽章の副題「ある英雄の死を悼む葬送行進曲」から「葬送」の名称で親しまれているが、この第三楽章は管弦楽や吹奏楽等に編曲され、要人の葬儀で使用されることもある |
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54
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その他
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ショパンのピアノソナタ第2番変ロ短調作品35は、第3楽章に有名な葬送行進曲が用いられていることから「葬送」または「葬送行進曲」の副題でよく知られているが、ベートーヴェンの「葬送」を意識して作曲されたと言われている |
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55
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第九交響曲
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「歓喜の歌」は欧州連合(EU)の欧州連合賛歌・国歌である(歌詞はラテン語) |
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56
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第九交響曲
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ベルリン国立図書館収蔵の自筆スコアが、ユネスコ(UNESCO)の世界遺産に指定されている(インターネット上に公開され、全ページの閲覧が出来ます) |
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57
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第九交響曲
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初演にも使われた、初版用筆写スコアを出版元のショット社がロンドン・サザビーズのオークションに出品し、190万ポンド(約3億6500万円)で匿名の人に競り落とされ、音楽資料の落札価格最高値を記録している(ジュリアード音楽院の手稿譜コレクションとしてインターネット上で閲覧出来る) |
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58
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第九交響曲
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ベートーベンは、第九初演に感激し、その夜は指揮の時に着ていた服のまま寝た |
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59
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人物
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ベートーベンの家系は代々音楽家で、飲んだくれで分からず屋の父親も音楽家だったが、息子が天才だと気づくなり金儲けに使ってやろうと4歳頃からピアノやヴァイオリンの練習を強制した |
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60
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人物
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7歳の時に、ケンルでピアノ演奏家としてデビューしたが、モーツァルトの演奏家デビューが6歳だったので、ベートーヴェンの父親は、彼の年齢を6歳とごまかしていた |
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61
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人物
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父親は、ベートーヴェンの年齢を若くごまかして、 13歳なのに11歳だとごまかして宮廷に売り込んだりもした |
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62
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人物
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ベートーベンは、1770年生まれであるが、生涯自分は1772年生まれだと信じ込んでいた(友人が洗礼の証明書を見せても認めようとしなかったと伝えられている) |
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63
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人物
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父は宮廷歌手であったが、アルコール依存のために喉を患っており収入はほとんどなかったので、ボンのケルン選帝侯の宮廷楽長であった祖父の支援により生計を立てていたが、ベートヴェンが3歳のときに死去したため、その後の家計は苦しかったが、10代のときには、家計を支えていた |
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64
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人物
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ゲーテと散歩をしていた際に、オーストリア皇后の一行と遭遇したが、ゲーテが脱帽・敬礼をして一行を見送ったのに対してベートーヴェンは昂然として頭を上げ行列を横切ったので、ゲーテはベートーヴェンと絶交した |
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65
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人物
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ベートーヴェンが楽譜を出版する際に、ハイドンに「ハイドンの教え子」と書き添えてほしいと依頼されたが、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた |
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66
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人物
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ベートーヴェンの死後、「ハイリゲンシュタットの遺書」と共に「不滅の恋人」宛に書かれた、1812年の手紙が3通発見されたが、誰宛に書かれたものか判明していない |
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67
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人物
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ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、リストは生涯独身であった |
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68
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人物
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生前ライフマスクや、死後デスマスクが作られたが、ライフマスクを作成する際には、息苦しくなって暴れたため作成を再度行った(デスマスク・ライフマスク・肖像画は、ここで見られます) |
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69
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人物
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ピアノ教則本で有名な、弟子のチェルニーは少年時代に初めてベートーヴェンに会った時、ロビンソン・クルーソーを思わせる、という感想を抱いた |
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70
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人物
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浮浪者と間違われて逮捕される事も何度もあるほど、身なりには無頓着だったが、手だけは念入りに洗っていた |
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71
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人物
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ゲーテはベートーヴェンの事を「その才能には驚くほかないが、残念なことに傍若無人な人柄だ」といっている |
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72
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室内楽曲
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ピアノ三重奏曲第7番変ロ長調作品97(1811作曲・1814年初演、ピアノ・ヴァイオリン・チェロ)は、ルドルフ大公に献呈されたため「大公トリオ」と呼ばれ親しまれているが、初演のピアノはベートーヴェン自身であった(以降、公衆の面前でベートーヴェンは演奏をしていない) |
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73
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室内楽曲
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ベートーヴェンの弦楽四重奏曲、第7番ヘ長調作品59-1、8番ホ短調作品59-2、9番ハ長調作品59-3の3曲は、「ラズモフスキー四重奏曲」または「ラズモフスキーセット」と呼ばれているが、ウィーン駐在のロシア大使のラズモフスキー伯爵の依頼を受け、献呈したのでこの名称で呼ばれており、そのためロシア風の旋律も取り入れている(ラズモフスキーの1番、2番、3番ともいわれる時がある) |
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74
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室内楽曲
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ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第11番ヘ短調「セリオーソ」作品95は、ベートーヴェン自身が「Quartetto serioso」と楽譜に書いたため、「セリオーソ(真剣に)」と呼ばれているが、緊張感が張りつめた曲で、それが緩まる事のない曲である(1810年に作曲されたが、このあと15年間は弦楽四重奏曲を作らなかった) |
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75
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室内楽曲
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ベートーヴェンが1826年に作曲した、弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調作品131は、7楽章もあり、陸軍中尉シュトゥッテルハイム男爵に献呈されているが、作曲者自身は会心の出来で最高傑作と思っており、「ありがたいことに、想像力は昔よりもそんなに衰えてはいないよ」と友人に言ったといわれている(シューベルトはこの作品をきいて、「この後でわれわれに何が書けるというのだ」と言ったといわれている) |
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76
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ピアノソナタ
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通常のピアノソナタが3楽章構成であることに対して、ベートーベンの最後のピアノ・ソナタ第32番は、2つの楽章で構成されている。 これに関してシントラーが「なぜ2楽章しかないのですか?」と質問をしたところ、「時間がなかった」という返事をしたが、これは「下らない質問をするな」という意味で、その意を解したシントラーは即座に恥じ入って、非礼を詫びたと、シントラーが書いたベートーヴェンの伝記に書かれている |
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77
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ピアノ協奏曲
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ピアノ協奏曲第3番は、初演のピアニストはベートーヴェン自身であったが、このときにはピアノの譜面はほとんど空白で、彼にしか分からない記号のようなものがところどころに書き込まれているのみで、かなりの部分を即興で弾きこなした。翌年に彼の弟子のリースが、ウィーンでピアニストとしてデビューすることになり、そのコンサートにこの協奏曲を選んだために、他人にも分かるように譜面を完成させなければいけなくなって、ようやくピアノ譜面が完成した |
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78
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ピアノ協奏曲
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ベートーヴェンは、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466を気に入っていて、そのカデンツァを自分の演奏用に書き残している |
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79
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ヴァイオリン協奏曲
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ベートーヴェンのバイオリン協奏曲は、ウィーンで活躍したヴァイオリニスト、フランツ・クレメントの依頼で作曲されたが、彼は、クレメントとは仲が良い友人同士だったので、この作品の自筆楽譜には「この曲はクレメントのためにクレメンツァ(伊語で「慈悲」の意味)をもって作曲」というだじゃれが書き込まれている |
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80
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ヴァイオリンソナタ
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ヴァイオリンソナタ第5番ヘ長調作品24(1801年作曲)は、幸福感に満ちた明るい曲想から「スプリング・ソナタ(春)」と後世に命名された |
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81
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ヴァイオリンソナタ
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ヴァイオリンソナタ第6番イ長調作品30-1、同第7番ハ短調作品30-2、同第8番ト長調作品30-3は、ロシア皇帝アレクサンドル1世に献呈されたため「アレキサンダー・ソナタ 」と呼ばれている |
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82
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ヴァイオリンソナタ
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ヴァイオリンソナタ第9番イ長調作品47(1803年作曲)は、フランスのヴァイオリン奏者のルドルフ・クロイツェルに捧げられたため、「クロイツェル」と呼ばれていが、クロイツェル自身は一度も演奏をした事がない(当初は、初演奏者のイギリスのヴァイオリン奏者のジョージ・ブリッジタワーに献呈されるはずであったが、女性関係で諍いがあり、クロイツェルに献呈された[初演のピアノ奏者は、ベートーヴェン自身]) |
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83
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その他
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ロシアの文豪トルストイは、ベートーヴェンのクロイツェル・ソナタに刺激を受け、1888年に同名の小説「クロイツェル・ソナタ」を執筆し、ヤナーチェクは、その小説を読んで憤慨し『弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」』を作曲した |
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84
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戦争交響曲
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ベートーヴェンの作品に、交響曲「ウェリントンの勝利」作品91があり、戦争交響曲とも呼ばれているが、ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(後にイギリス首相)が率いるイギリス軍が、1813年にスペインでナポレオン軍に勝利した事を讃えた2部形式の曲である(交響詩的な作品であるが、当時はそのような名称はなく、交響曲として発表された) |
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85
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戦争交響曲
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「ウェリントンの勝利」は、パンハルモニコン(軍楽隊のさまざまな音をだす事のできる自動演奏楽器で、メトロノームで有名なメルツェルが発明)のための曲として、メルツェルの委嘱により作曲された |
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86
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戦争交響曲
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「ウェリントンの勝利」は、ベートーヴェンとメルツェルとの間に著作権トラブルが生じたが、1817年にベートーヴェンが勝訴した |
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87
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戦争交響曲
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「ウェリントンの勝利」は、イギリス軍の勝利の曲なので、イギリス国王ジョージ4世に献呈された |
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88
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戦争交響曲
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ベートーヴェンの「交響曲第7番」の初演は、交響曲「ウェリントンの勝利」の初演と同時に行われ、当時の聴衆には、「ウェリントンの勝利」の方が受けが良かったが、現在では、「ウェリントンの勝利」は、ほとんど演奏されない(初演時には、モーツァルトのライバルの、サリエリが大砲を表現する大太鼓隊の指揮を行った、また小銃の音は本物のマスケット銃を使用した) |
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89
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第九交響曲
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「ウェリントンの勝利」が初演されて10年後に出された、第九の初演をウィーンで行うようにとの嘆願書には、『「ウェリントンの勝利」の栄光を今一度』という言葉があり、当時は人気が高かった事がわかる |
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90
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第七交響曲
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ベートーヴェンの交響曲第7番を、ワーグナーは「舞踏の権化」と表現したが、ロマン・ロランは、「酔った勢いで書いた曲だ」と言っている |
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91
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第八交響曲
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ベートーヴェンは自分の交響曲の「第7番」を“大きな交響曲”、「第8番」を“小さな交響曲”と呼び、特に「第8番」は、とても気に入り自信を持っていた |
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92
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第四交響曲
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シューマンは、ベートーヴェンの交響曲第4番を「北欧神話に出てくるかのような、2人の巨人(第3番「英雄」と第5番「運命」)の間に挟まれた清楚で可憐なギリシャの乙女」と言った |
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93
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第九交響曲
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1963年の10月に日生劇場の柿(こけら)落とし公演のためにベルリン・ドイツ・オペラが来日して、第九の演奏を行ったが、演奏後、学生が感きわまって指揮者のカール・ベームの足にすがりついて泣き始めた |
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94
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第九交響曲
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第九初演時、ベートーヴェンは当時既に聴力を失っていたため、ウムラウフが正指揮者として、ベートーヴェンは各楽章のテンポを指示する役目で指揮台に上がった。ベートーヴェン自身は初演は失敗だったと思って演奏後も聴衆の方を向くことができず、また、耳の病により拍手が聞こえなかったため、聴衆の喝采に気がつかなかった。見かねたアルト・ソロ歌手の「ウンゲル」がベートーヴェンの手を取って聴衆の方を向かせ、はじめて拍手を見ることができた |
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95
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第九交響曲
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第九初演終了後、観衆が熱狂し、アンコールでは二度も第2楽章が演奏され、三度目のアンコールを行おうとして警官に止められた |
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96
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第九交響曲
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第九初演後、「喝采」が4回かかり、5回目を警官が制止した(これは、皇帝陛下にすら喝采は3回までと決められていたから) |
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97
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第九交響曲
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第九はシラーの歌詞を引用した合唱部分を持つ第4楽章が有名だが、第2楽章も特徴的である。当時の交響曲は第1楽章はインパクトのある曲、第2楽章はゆっくりした曲を持ってくるというのが定石だったが、第九の第2楽章はゆっくりどころか、たくましい躍動感のある曲である。このため、第九初演では第2楽章が終わったとき、観客からいっせいに拍手が沸き起こった |
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98
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第九交響曲
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第九の初演では、女声合唱パートは少年合唱団が担当した |
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99
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第九交響曲
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1924年5月23日に演奏会場を初演より大きなレドゥーテンザールに移して第九の再演が行われたが、会場の半分も集客出来ず大失敗だった。ウィーンの聴衆の受けを狙ってロッシーニのオペラアリアを入れた事、昼間の演奏会だったので人々がピクニックに出かけてしまった等の理由がベートーヴェンの会話帳に残っている |
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100
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第九交響曲
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1826年11月27日に第九はベルリンで初演されたが、その時の指揮者のカール・メーザーは、少しでも(その当時は、難解な)第九に親しんでもらえるようにするため、2週間前の11月13日、17歳のメンデルスゾーンがメーザーに依頼されて、選ばれた音楽家の前でピアノで演奏をした |
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101
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第九交響曲
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現在では、指揮者ワインガルトナーに従い3楽章終了後すぐに4楽章を開始する指揮者が多い。しかし、初演された当時にはティンパニは、チューニングが必要(音程を変えるペダルがなかった)で、ホルン、トランペットも同様に管の交換の時間を要したので、第3楽章と第4楽章の間には休憩があった |
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102
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第九交響曲
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歓喜の歌は、1964年の東京オリンピックに東西ドイツが統一選手団を送ったときには、国歌の代わりに歌われた |
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103
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第九交響曲
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ベートーヴェンの第九の初版楽譜を出した、ショット社は現在、日本に現地法人を持っている |
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104
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第九交響曲
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第九の本来の名前(原題)は、「シラーの頌歌(しょうか)「歓喜に寄す」による終結合唱を持つ、大管弦楽、四声の独唱と四声の合唱のために作曲され、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世陛下に最も深い尊敬の念を持って、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンにより、献呈された交響曲、作品125 ( Sinfonie mit Schluß-Chor über Schillers Ode “ An die Freude ” für großes Orchester, 4 Solo- und 4 Chor-stimmen componirt und seiner Majestät dem König von Preussen Friedrich Wilhelm III in tiefster Ehrfrucht Zugeeignet von Ludwig van Beethoven, 125 tes Werk )」であり、初版の楽譜には、「交響曲第9番」とは書かれていない(ここを参照して下さい) |
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105
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第九交響曲
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第九の初演が行われた、ケルントナートーア劇場(宮廷歌劇場)は、1869年に取り壊され、現在はその地に「ザッハー・トルテ」という菓子で有名な、ホテル・ザッハーが建っているが、「ケルントナー通り」という名称の有名な道路が残っている(ここを参照して下さい) |
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106
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人物
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卵好きで、卵の鮮度を確かめるために光に透かしたり、女中に毎週木曜日、鶏卵10個を使用したオムレツ作らせて食べるのを楽しんだ。また。これが気に入らないと女中の背中に生卵をぶつけて怒ったり、卵を調理中の女中の周りをうろうろした |
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107
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オペラ
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モーツァルトのオペラ「魔笛」の台本を書き、また初演でパパゲーノ演じた、エマヌエル・シカネーダーが建てた、アン・デア・ウィーン劇場に、シカネーダー本人から、ベートーヴェンは音楽監督として招聘され、自分の作品のオペラ「フィデリオ」等の初演を行ったが、ベートーヴェンは一時期その劇場に住んでいた(劇場外にパパゲーノと三人の童子の像が飾られたパパゲーノ門が、劇場内に「ベートーヴェンの部屋」の展示があります)[ここを参照して下さい] |
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108
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オペラ
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ベートーヴェンが完成したオペラは、一つしかなく、それは「フィデリオ」であるが、これは当初「レオノーレ」として発表され、2回の改訂を行い最終的に「フィデリオ」となった。また、そのオペラのための序曲は4曲(レオノーレ序曲第1番〜第3番、フィデリオ序曲)ある |
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109
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オペラ
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マーラーは、1904年にオペラ「フィデリオ」を指揮した際、序曲として「フィデリオ序曲」を演奏し、第2幕2場への間奏曲として、「レオノーレ序曲第3番」を演奏したが、現在では、それが慣習となっている |
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110
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オペラ
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ベートーベンが最も評価していて、好きだったオペラはモーツァルトの「魔笛」だった(モーツァルトの最後のオペラで唯一ドイツ語で書かれており、他のモーツァルトのオペラはイタリア語で書かれていたためとも言われている) |
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111
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オペラ
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しかし、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」や「フィガロの結婚」などは軽薄に思っていた(当時は、「ドン・ジョバンニ」がモーツァルトの最高傑作だと一般的に思われていた) |
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112
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オペラ
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友人が、「なぜオペラを作曲しないか」と尋ねた所、ベートーヴェンは「もっとオペラを書きたいと思っているが、自分に合う(崇高な)台本が見つからないのだ」と言ったとも伝えられている |
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113
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第九交響曲
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1872年に、ワーグナーがバイロイトに祝祭劇場を建設する際、その記念として選帝侯劇場にてリヒャルト・ワーグナー自身が指揮をして、ベートーヴェンの第九が演奏された |
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114
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第九交響曲
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バイロイト音楽祭は、バイロイト祝祭劇場で毎年7月から8月にかけて行われる、ワーグナーの歌劇・楽劇のみを演目とする音楽祭であるが、ワーグナー以外の作品が演奏されるのは、ベートーヴェンの第九だけである |
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115
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その他
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バッハ、ベートーヴェン、ブラームスを「ドイツ三大B」と初めて言ったのは、19世紀の指揮者の、ハンス・フォン・ビューローである(当時、新鋭だったブラームスの作品をPRするためといわれている) |
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116
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その他
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ハンス・フォン・ビューローは、演奏前に観客を啓発するために長い講義をしたが、ベートーヴェンの第九を演奏した際には、全曲をもう一度繰り返し、聴衆が途中で逃げ出さないように、会場の扉に鍵を掛けさせた事もあった これを、ブラームスは「ベートーヴェンの第18」(第九 × 2)と批判した |
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117
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その他
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ハンス・フォン・ビューローは、ブラームスの交響曲第1番を「ベートーヴェンの交響曲 第10番」、交響曲第2番を「ブラームスの 田園」と言った |
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118
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その他
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難聴であったベートーヴェンは筆談をし、その会話帳は400冊余あったが、シントラーは半分以上を破棄して、現存しているものは136冊である(しかもその残った会話帳の中にも、シントラーは改竄を加えている) |
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119
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作品
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1804年から1814年の10年は「傑作の森」と呼ばれ、交響曲「第3番(英雄)」「第5番(運命)」「第6番(田園)」「第7番」「第8番」、「ピアノ協奏曲第5番(皇帝)」、ピアノソナタ「第21番(ヴァルトシュタイン)」「第23番(熱情)」「第26番(告別)」、ヴァイオリン協奏曲など、数々の名曲を作りあげている |
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120
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その他
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「傑作の森」と初めて言ったのは、ノーベル文学賞作家の、ロマン・ロランで、1903年に、ベートーベンの伝記「ベートーヴェンの生涯 |
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その他
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中国語でベートーヴェンは「貝多芬(Ludwig van Beethoven:路徳維希・凡・貝多芬」、シラーは「席勒(Johann Christoph Friedrich von Schiller:約翰・克里斯托弗・弗里徳里希・馮・席勒)」 という[ちなみに、モーツァルトは「莫札特(Wolfgang Amadeus Mozart:沃爾夫岡・阿馬多伊斯・莫扎特)」、バッハは「巴赫(Johann Sebastian Bach:約翰・塞巴斯蒂安・巴赫)」、ハイドンは「海頓(Franz Joseph Haydn:弗朗茨・約瑟夫・海頓)」、ヘンデルは「韓徳爾(Georg Friedrich Händel:格奧爾格・弗里徳里希・韓徳爾)」、ブラームスは「勃拉姆斯(Johannes Brahms:約翰内斯・勃拉姆斯)」です] |
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第九交響曲
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中国語で歓喜の歌は、「歡樂頌(歓楽頌)」、第九(交響曲第9番)は「第九號交響曲」という |
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第五交響曲
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山本直純は、ベートヴェンの交響曲第5番「運命」をベースに変曲した、パロディー音楽『交響曲第45番「宿命」』を作曲している(交響曲1番〜9番の数字を足すと、45になります)[ここ(山本直純フォーエヴァー~歴史的パロディー・コンサート |
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ピアノ協奏曲
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山本直純は、ベートヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝(エンペラー)」をベースに変曲した、パロディー音楽『ピアノ狂騒曲「ヘンペラー」』を作曲している[ここ(山本直純フォーエヴァー~歴史的パロディー・コンサート |
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第九交響曲
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喜びの歌のドイツ語歌詞を無理矢理、漢字の音に置き換えた音訳(語呂合わせ)はたくさんあるが、有名なものは1985年の「国技館すみだ第九を歌う会」で向島芸者連が使用したテクストで、1986年2月20日の朝日新聞の記事で紹介された[詳しい経緯は、「第九の歌詞の音訳(ごろあわせ)」(The Web Kanzakiより)をご覧ください] ここ(第九の音訳)で、ドイツ語と漢字の音訳と発音(カタカナ)が見られます |
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第九交響曲
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1989年のベルリンの壁崩壊を記念して、同年12月25日にレナード・バーンスタインがベルリンで第九を演奏したが、歓喜の歌の歌詞は「Freude(歓び)」を「Freiheit(自由)」に置き替えられて行われた そのCDは、ここ |
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その他
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アメリカのLifegem社は、2007年にベートーヴェンの遺髪からダイヤモンドを3個作成し、そのうちの一つをネットオークションに出品したが、その落札スタート価格は、100万ドルであった(日本法人のライフジェム社はここです) |
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第九交響曲
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カラヤン生誕100年を記念し、2007年12月にユニバーサルが「カラヤンの第九」の中から名盤として長く親しまれてきた1962年に録音されたものを「ガラスCD」としてリリースしたが、市販CDとしては定価20万円と最高価格である (Amazonのここで |
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番外
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第九交響曲
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当、男声合唱団「ふんけんクラブ」の命名の由来は、第九の四楽章の歓喜の歌の「フロイデー・シェーネル・ゲッテルフンケン」より、命名された |
![]() アン・デア・ウィーン劇場の旧正面入口(パパゲーノ門) 現在の正面入口の右側に、旧正面入口があります ![]() この玄関の左脇に、べートーベンが住んでいたと 書かれた、ウィーン市の案内板があります (ベートーベンは引っ越し魔で、79回もウィーン市内で 引っ越しを行いました) |
ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場
ベートーベンの数多くの曲が初演されました また一時期、ベートーベンはこの劇場内で暮していました 魔笛初演でパパゲーノを演じた、シカネーダーが建設をいたしました アン・デア・ウィーン劇場公式サイト(独・英語) http://www.theater-wien.at/ アン ・デァ ・ウィーン劇場の案内(日本語) (ウィーン市観光局公式サイトより) アン・デア・ウィーン劇場の説明 (『ウィキペディア(Wikipedia)』より) |
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とよはし100祭記念「市民の賛歌 第九コンサート」 2006年10月22日
ライフポート とよはし(写真はこちら、日誌はこちらです)
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| 「ふんけんクラブ」のホームページは、ご自由にリンクして頂いて結構です URLは http://funkenclub.com/ をご使用下さい リンクされた後に、メールか掲示板でお知らせして下されば、相互リンクさせていただきます このページ( http://funkenclub.com/htm/daiku.htm )にリンクを はられても結構ですが、その場合も必ず、「ふんけんクラブ」トップページへのリンクも合わ せて行い、男声合唱団「ふんけんクラブ」からと明記をお願いいたします |
![]() ケルントナートーア劇場(宮廷歌劇場) 1763 − 1869年 ウィーン 1824年に、ここで第九が初演されました 現在はその場所に、ホテル・ザッハーが建っています ケルントナー通りという名称の道路が残っています |
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